yamayama_photo日記

心に残るよしなしごとを写真とともに書きとめる草ログ

高齢者介護について考える

先日、家人が母を介護した時の話を某TV局が取材にきた。私にとっては姑なので、少し取材されたが、うまく良い話が出来なかった。

 

あとで考えてみたが、私にとって義理の母の介護がどのような意味だったのか、義理の母にとって認知症の日々はなんだったのか、考えたことがなかったからだ。いや、全く考えていなかった訳ではないが、その時は考えるより対処しなければならないことばかりだった。

番組ディレクターから事前に簡単な質問内容を聞いていたが、実際の質問は微妙にニュアンスが違い、用意していたことの半分も言えなかった。これを機会に改めて考えてみた。

 

義理の母は幸せだったと思える。認知症の姑は在宅看護で夫とヘルパーさんがその多くの部分を見ていた。難しいことは言えないが、老後の介護は、若いときにその人が準備をしていたのではないかと思うのだ。それはことばや貯蓄などではなく、日々の暮らし方、周囲への背中の見せ方だと思う。子どもがいるかいないか、経済的な問題もあるだろうが、その部分も含めて元気なときから準備をしているといえる。姑は人との結びつき、繋がりを大切にして、周りの人に尽くし自分も尽くされた生き方をしていたように見えた。自分が楽しい生き方をしていると周囲にも伝わったのではないかと思うのだ。それは家族をはじめ近隣の友人たちがいたからだ。

 

認知症の日々は今で言う、終活と思える。多分、周囲の人が別れても寂しくないと思える日まで、続くのではなかろうか。すごく乱暴な言い方かもしれないが、今の私にはそう思える。

果たして私はどのような終活をするのか、自分の両親を見ていると若い頃想像した状況とは違って、至って健康的なので本当に分からないことだけれど、きっと私の親もしっかり準備していたのだ。

しかし、最近は自分もふくめうまく準備できない人がたくさんいる。そのために考えること、何かしなければと思う。

 

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