yamayama_photo日記

心に残るよしなしごとを写真とともに書きとめる草ログ

鈴木理策写真展 意識の流れ

東京オペラシティギャラリーで「鈴木理策写真展 意識の流れ」を見て来た。

 

「海と山のあいだ」「White」「SAKURA」に、新シリーズ「水鏡」「Étude」が動画3点とともに展示されていた。8X10の大型カメラで撮影された写真はどれも隅々まで美しいプリントだった。

 約100点ということだった。枚数は感じなかったが、動画もあり時間をかけて見た。

 

タイトルの「意識の流れ」は「見るという行為に身をゆだねると、とりとめのない記憶やさまざまな意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりのような感情をもたらすことがある」という鈴木自身の経験に基づいてつけられました。鈴木のまなざしを追体験すること、それによって私たちは純粋に「見ること」へと誘われるでしょう。 図録「Stream of consciousness」

 

「海と山のあいだ」 はまさに海と山、岩場の風景だった。大きな写真を直前で見ているうちに、前景、中景、後景という風景のレイヤーを意識しはじめ、どこが中心ということのない画面の最初に目がいった箇所から隅々までを順にみていくという不思議な見方をしていた。確かに見るという行為は「見よう」「理解しよう」ということから「見たことを意味に変えよう」「既視のなかに当てはめよう」という意識がわいてくるが、なにかとりとめのない鈴木理策さんの写真はそれを許さず、見えるものを見えるままに見て行った先に自分の見方が出来上がってくる。見るという行為を体験に変えていくということのようにも思える。

いつも鈴木理策さんの写真にはどこか遠い神懸かったような原初的な奥行きを感じる。

 

これらの写真は静けさに満ちた一瞬の風景をとどめて静止しているが、それは逆に常に動いている時間を感じさせるもので決して停滞しては見えなかった。写真家鈴木理策さん自身もそこに触れている。

写真は静止しているからこそ、私たちが実際の風景を目の前にするときよりも多くの情報をじっくり見せてくれる。2次元に還元されたことで情報が整理されているということもある。

私たちは1枚の静止した写真のなかに、逆に時間を充分に感じることが出来る。それと同時に、実際に見た風景とカメラという外的な装置が撮った写真のブレで失われること、情報を受け取って何かの意味を見つけてしまったことで見えなくなっていくことも沢山ある。

フィルムカメラにこだわり、撮影したその時のその場を撮るということが写真にとって重要としている鈴木理策さんは、自己とカメラの見た風景のブレを含めて受けとり、その場を写真というメディアに対象化しているように思える。

 

「Étude」 は花の咲き乱れる様子がランダムに切り取られていた。その色は直感的にモネの絵を思い起こさせた。モネはそれまでの保守的な絵画に対し、時間とともに変わる光や明るい色彩を描き起こそうとした印象派の画家である。伝統的な技法ではなく、画面全体を均質に、網膜に写ったままの、意味や記号性から解き放たれた絵だった。

鈴木理策さんは以前、後期印象派セザンヌが何枚も描いたエクス サン プロバンスのサント ビクトワール山やアトリエを撮影しているが、印象派の絵そのものの表面と写真の表面が近づいているように思えた。

 

「White」 の雪の白さを撮った写真には「白い印画紙、白い雪のイメージ。その境界線は私たちの側にある。」と書かれたキャプションがあった。私たちは意識のスイッチを持っている。そこに人の視覚とイメージ力、創造力の豊かさ、可能性を感じる。

 

白い印画紙と白い雪のイメージのあいだに揺れることを頭の片隅において、「見続ける」ことが重要だと思う。

 

 

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鈴木理策写真展 意識の流れ|東京オペラシティアートギャラリー