yamayama_photo日記

心に残るよしなしごとを写真とともに書きとめる草ログ

保育は人間学

青山のワタリウム美術館では「『驚くべき学びの世界展』 北イタリア、レッジョ・エミリアの世界最高水準のクリエイティブな教育実践 The Wonder of Learning」を開催中。その一連の講演会「子ども教育研究会 ―芸術と教育と福祉の統合―」の第2回「障碍児にとってのアートと教育」が昨日行われ、東大教育学の佐藤学先生と愛育養護学校理事長の津守真先生の対談を聴講して来た。

津守真先生は発達心理学者でお茶の水女子大学名誉教授。愛育養護学校で障害児の保育活動を行い、校長を経て現在は理事長という方。しかし、津守先生は研究者より「保育者」の方が最も近いがまだ不十分という佐藤学先生の話がよく伝わってきた対談だった。この対談には奥様をはじめ、愛育養護学校のスタッフも沢山来ていて、津守先生のお話に加え、一緒に働く保育者からの視線を語ってくれた。

ワタリウム美術館で行われている展覧会で紹介されているレッジョ・エミリアは北イタリアの小さな町で、第2次世界大戦後に村人たちが戦車や軍用トラックを売り払い、手づくりで幼児教育を始めた。その教育はアートの創造的経験によって子どもの可能性を最大限に引き出し、現在では世界中が評価し注目する教育実践となった。このレッジョの教育は、健常児も障碍児も共に対等に学び合うインクルージョンの教育を推進している。

対談では愛育養護学校の例を交えて、津守先生の徹底した大きな人間力ともいえる保育(保育や客観的実証科学というより「人間学」と佐藤学先生は言っているが)について話を聞いた。
まず、子どもの存在を丸ごと受入れる。例えば、障害児が繰り返し行う一見意味が分からない行動もなぜ?なにを求めているのか?と考える保育者の視線ではなく、一緒にその行動を感じて、その子の壁でなく2人の壁を超えようとするところから、何かが変わってくるのだという。確かにその子の行動を理由付けしようとすることは、その子をまるで研究対象として外から見ているのと同様だと気付かされた。
また、子どもにとっては同じ行動も繰り返しではなく、子どもの経験の内側では絶えず新しい発見が起こっているかも知れないのだ。
「今」という時間の概念についても新しい気付きがあった。〜「今」は過去から連続しているが、切り離されている。いつも直結していたら過去に憑かれていることになる。過去は現在の生き方によって変化する。現在は思いきって現在の意思で生きよう。〜
そうでないと子どもたちの「今」は大人が求めるこどもの「将来」のために犠牲にされてしまう可能性があるから。保育者は相手の意思を育てるとしても、相手のなにかを一方的に求めることは出来ないし、保育者と子どもの真の関係が、「する」と「される」だけの非対称の関係になっては何も変わらないということか。

津守先生は「佐藤さんはどうしてそのような問題が分かるのですか?」など、この対談中にも佐藤学先生にいろいろと質問をした。
〜共同の場は、対等の人間同士の相互制により、新たな可能性が開かれる場である。〜 常に互いに質問する、されることは対等な立場が前提であり、その相互作用によって新たな答えが生まれてくるということか。

理解しきれない言葉や間違った理解もあるかと思うが、津守先生が人間として子どもたちと向き合って来たということは多いに感じることが出来た。

※ 〜内は当日の資料から引用「保育者の地平」津守真 著 ミネルヴァ書房


「驚くべき学びの世界展」
北イタリア、レッジョ・エミリアの世界最高水準のクリエイティブな教育実践
The Wonder of Learning
会期 2011年4月23日[土]〜7月31日[日]

ワタリウム美術館
http://www.watarium.co.jp