yamayama_photo日記

心に残るよしなしごとを写真とともに書きとめる草ログ

シンガポールのフードコート

Asian Festival of  Children's Content :AFCCに参加するためシンガポールへ行ってきた。

AFCCは2000年から前進の会議が始まり、現在はアジアを中心テーマとして、子どもの図書文化を巡る会議やセミナー、イベントが絵本に関わるプロ向けと、教員や親子などの一般向けと対象別に開催している児童向けコンテンツフェスティバルだ。会議は多くの熱心なスピーカーと熱心な参加者たちで溢れていた。

今年はcountry of focusが日本ということで、日本の児童図書を中心にした講演、展示、イベントなどが連日行われ、日本から多くの絵本や教育関係者が集まった。

シンガポールらしいのかなと思ったのは、1階のピロティで行われているステージとブックフェアの横のスペースに、ランチが毎日提供されたことだった。ピロティとは通りから本館入口に続く屋根はあるが吹きさらしの場所だ。ここで行われたステージとブックフェアは無料プログラムでいろいろな目的の人が集まってくるところだったが、オープンな文化なのだと感じた。

 

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会場となった16階建ての国立図書館シンガポールの知と文化の象徴のようで、図書館機能の他にシアターや会議場、展示場などが設置されていた。ガラス張りのカーブの美しい建物には、大型バスで到着した幼稚園生から高校生くらいの子どもたちが、学校の授業の一環で訪れたのだろうか、列をなして図書館に吸い込まれていったのが印象的だった。

地下には子ども向けの図書室が子どもたちの興味を満足させるような構造と装飾で、近代的な階上とは違う趣でつくられていた。いかにも熱帯らしい作りのツリーハウスが中央につくられ、ゆったりしたプレイスペースや映像スペースには子どもたちが寝転んでそれぞれの時間を過ごしていた。

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経済的な発展が目覚ましいシンガポールでは近年、国際文化芸術都市とする政策を打ち出し、美術館の新設や大きなアート系イベントも開催されているが、多くの美術館でこどもたちへのアートに触れる機会もつくられていた。中でもシンガポール・アート・ミュージアム Singapore Art Museumでは現代美術が展示されているが、その系列美術館のSam at 8Qでは若いアーティストの展示と聞いていたが、訪問した時には「Imaginarium」という子ども向けの展示が全館4フロアで開催されていた。ほとんどが体験型でまさに子どもが好きそうなかわいらしい作品のほか、大人も一緒に楽しめる現代美術の展示もあり、こどもへのアートの導入がよく考えられているように感じた。

ちょうど、アジア世界大学ランキングではシンガポールの大学が2015年に引き続き2016年も1位、2位を維持というニュースを耳にした。シンガポールでは英才教育も盛んというが、文化的教育水準も高いのだろう。

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Sam at 8Qはビジネス街にあったが、その近くにあったフードコートで昼食を食べた。外食中心のシンガポールにはこのようなフードコートが多く見受けられた。

モンスーン気候の熱さのなかだが、大通りに面した店は壁で仕切られていず、ちょうど国立図書館のピロティのように、外気の熱さそのままの店内には仕事中のランチタイムらしき人々がキッチンカウンターとレジ前に並んでいた。システムをのみ込むのにちょっと迷ったが、1皿に肉と野菜の惣菜数種にご飯か麺を選び、味も満足がいって約300円という安さだった。

デコラティブなビルが多い近代都市のなかに、東南アジアらしい文化の名残を見つけた。

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高齢者介護について考える

先日、家人が母を介護した時の話を某TV局が取材にきた。私にとっては姑なので、少し取材されたが、うまく良い話が出来なかった。

 

あとで考えてみたが、私にとって義理の母の介護がどのような意味だったのか、義理の母にとって認知症の日々はなんだったのか、考えたことがなかったからだ。いや、全く考えていなかった訳ではないが、その時は考えるより対処しなければならないことばかりだった。

番組ディレクターから事前に簡単な質問内容を聞いていたが、実際の質問は微妙にニュアンスが違い、用意していたことの半分も言えなかった。これを機会に改めて考えてみた。

 

義理の母は幸せだったと思える。認知症の姑は在宅看護で夫とヘルパーさんがその多くの部分を見ていた。難しいことは言えないが、老後の介護は、若いときにその人が準備をしていたのではないかと思うのだ。それはことばや貯蓄などではなく、日々の暮らし方、周囲への背中の見せ方だと思う。子どもがいるかいないか、経済的な問題もあるだろうが、その部分も含めて元気なときから準備をしているといえる。姑は人との結びつき、繋がりを大切にして、周りの人に尽くし自分も尽くされた生き方をしていたように見えた。自分が楽しい生き方をしていると周囲にも伝わったのではないかと思うのだ。それは家族をはじめ近隣の友人たちがいたからだ。

 

認知症の日々は今で言う、終活と思える。多分、周囲の人が別れても寂しくないと思える日まで、続くのではなかろうか。すごく乱暴な言い方かもしれないが、今の私にはそう思える。

果たして私はどのような終活をするのか、自分の両親を見ていると若い頃想像した状況とは違って、至って健康的なので本当に分からないことだけれど、きっと私の親もしっかり準備していたのだ。

しかし、最近は自分もふくめうまく準備できない人がたくさんいる。そのために考えること、何かしなければと思う。

 

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見える人も見えない人もさわって一緒に楽しむ絵本

点字つきさわる絵本」は目の見えない人と見える人がいっしょに楽しめる絵本だ。目の見える子と見えない子が一緒にみること、目の見えない母親が子どもに読んであげることで、新しいコミュニケーションや知識、感性が育まれるだろう。

 

点字つきさわる絵本」バリアフリー絵本ともいわれ書店は限られているが、一般の書店でも扱われ、大手の出版社から何冊も発行されている。

通常の印刷の文字部分に透明な隆起する樹脂インクで点字を印刷し、絵の部分も絵の形を線や面で樹脂インクを盛り上げて印刷し、指で触って点字や絵柄を理解出来るようにしている。

しかし、元の絵本の文字や絵柄そのままに点字や形で印刷しても、触った人にはとても分かり難いことが多い。文字の位置や並び方、特に絵本では言葉の遊びなどではそのままの点字にしても伝わらないことが多い。また、絵柄に関しては背景との識別など元の絵そのままでは絵がごちゃごちゃして理解出来ない。またノド部分(本の中央の折り目、あるいは束ねられた部分)に樹脂インクで印刷されるとインキがはがれたり、点字がつぶれたりするので調整し、絵本ごとに見えない人にも絵本の世界観が壊れず伝わるようなたくさんの工夫が必要になる。例えばフライパンが横から描かれた次のページで真上から描かれると、視点が変わったことが分からないと理解が難しい。地面の線がないとそこにいる動物たちが浮いているように感じたり、だからといって分かりやすさだけにとらわれると絵本の世界観から離れてしまう。製本や印刷が特別になるので、絵本の価格をおさえる工夫も重要になる。

 

その制作に大きな力を与えているのが「点字つき絵本の出版と普及を考える会」で、目の見えない人と見える人がいっしょに絵本を楽しめるように点字つき絵本の出版を目指している。この会は先天的に目が不自由な岩田美津子さんという方が出版社などに声をかけて始まり、点字つきさわる絵本の研究、制作の協力、普及を訴えている。

 

2013年、この会の10周年を記念し、点字つきさわる絵本の『こぐまちゃんとどうぶつえん』(こぐま社)、『ノンタンじどうしゃぶっぶー』(偕成社)、『さわるめいろ』(小学館)の3冊が同時出版され、追って『ぐりとぐら』(福音館)がぐりとぐら誕生50周年記念の1つとして出版された。このときにテレビでも紹介され、多くの人が知るきっかけとなった。岩田さんはこのような誰でもが知っている絵本を、目の見えない子どもたちにも楽しんでもらいたいと願っていたそうだ。

 

2014年にはてんじつきさわるえほん『さわるめいろ』(小学館)が、多くの賞を受賞し、目の見える多くの人にも周知されたという。

また視覚障害者にもいろいろな状況があり、弱視の子どもは色のきれいさを喜ぶことも分かった。2015年に出た『さわるめいろ2』では、カラフルな色といろいろな難度の迷路がデザインされ、視覚障害の方をはじめとし、目の見える人も更に楽しめる美しい絵本がつくられた。

『さわるめいろ』は印刷された普通の文字には透明な樹脂インクで点字が施され、迷路部分は盛り上がった点線で迷路を指でたどれるようになっている。視覚障害の人をはじめ、目の見える人も目をつぶって指先の感覚を研ぎすまして楽しむことが出来る。

視覚障害でも先天的全盲でないと点字は学ばないとも聞く。だから余計に誰かといっしょとか、絵の触図が楽しく集中出来るものが必要だと思う。いまの私では点字はおろか、触図部分も判別出来ないが、この迷路では少し練習すると楽しめるような気がする。

 

このさわる絵本はドイツ語訳され、"Streichel-Labyrinthe"として販売されているという。

日本での発行と違うところは、ドイツでは特別な視覚障害者用さわる絵本という扱いではなく、インクルーシブな本としているとのことだ。また裏表紙には日本のように点字での絵本の遊び方の説明はなく、絵本のコンセプトが書かれている。本文にも通常の文字印刷の上に点字はなく、迷路の点線状の隆起(触図)に集中するようになっていてシンプルなようだ。

印刷された普通の文字に点字が施され、使い方の説明がされている丁寧な日本の絵本。絵本にさわれば遊び方は自然に分かるというように説明よりも絵本のコンセプトが書かれたドイツの絵本。

同じ絵本でもお国柄が現れていることから考えることもいろいろだ。

 

www.shogakukan.co.jp

 

ドイツの出版社

Streichel-Labyrinthe für Menschen mit Fingerspitzengefühl

 

 

 

 

映画「水と風と生きものと」

科学者で「JT生命誌研究館」館長を勤める中村桂子さんを追った映画をみた。

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生命誌とは人間も含めてさまざまな生きものたちの「生きている」様子を見つめ、そこから「どう生きるか」を探す、生命科学から進化した新しい知だそうだ。JT生命誌研究館では研究、展示発表、イベントなどが行われる大阪府高槻にある研究・展示施設だ。

いまの時代に必要なことを、科学者の視点から現代社会に警鐘をならし、いろいろな知とつながって、生きることの大切さを提唱していて、いたるところで賛同出来た。

 このドキュメンタリーの中で「生きていること」「わたしたち人間もいきもののひとつ」を大切に考える社会を求め、日本中の同じような考えを持つ研究者、アーティストや学校、編集者、冒険家などを訪ねて語り合い、多方面から検証し、中村さんの考えの幅を広げている。

 

東日本大震災を体験し、日本の人々が豊かで脅威に満ちた自然のほんとうの姿、人間が人間の都合で自然をおさめようとするのではなく、自然のなかで生きるということを大切にすることに改めて気付き、科学が進歩したなかでの人間がどうあるべきか考えを改めるという兆しが見えたように感じたが、その怖さを知ったうえで更に間違った方向へ日本は向っていると中村さんは危惧していた。

そんななかでどうしたら全ての生きものが自然の恩恵を受けた心豊かな生活をおくれるようになるか、現状を変えていけるか、生命科学者の目を通して考え訴えている。

 

多様な生命がどのように生まれ、つながって生きて来たかということを探って行き着いたのは、地球上のすべての生きものたちは、38億年前の海に存在した細胞を祖先としDNA(ゲノム)としてそれぞれの体内にその38億年の歴史を持って生まれた稀な大切ないのちであるということだった。

38億年という歴史、時間を無駄には出来ないが、科学が進歩した時代に生き、自然やいのちをつなげることがいつの間にか自分の身体から遠く実感が持てなくなっている現代の人間にどのように響くのだろうか。

「生きものたちの大切さ」というあたりまえのことを、真に理解すること、体感することは実は難しいだろう。出来るだけ子どものうちに体験し、興味を持ち、身体化して持続してもらいたい。

 

人間も生きもので、自然の一部であるということ、これは人間が変えることは出来ない。とすれば、自然を人間がかえることも出来ないはずだ。

確かに自然の摂理が解明され、技術が発展し物理的には過ごしやすくなったけれど、日常の営みの中で工夫され自然に変わっていくことと、人間のエゴで自然の摂理に抗い無理やりに変えることは違うのだと思う。

科学や技術が日々進歩する中で、早くしないと何かが間に合わないのではないかと焦る気持ちがあるが、時間をかけないと人の心を変えることは出来ないと思う気持ちも同時にある。

 

「水と風と生きものと」 オフィシャルサイト

tsumugu.brh.co.jp

 

 

 

 

建築家 フランク・ゲーリー展 " I Have an Idea " 

10月16日から開催された「建築家 フランク・ゲーリー展 " I Have an Idea " 」を早速観に行った。

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会場にはおびただしい数の模型が展示されていたが、建築というより造形的な仕事から始まっていることにワクワクし、これが自由な発想や印象深い動きを持ったデザインに繋がっていくのだと良くわかった。

 

タイトルの " I Have an Idea " は「アイデアがあるから創造する」という意味にとれるだろう。展示はプロジェクトの初期のアイデアの試行錯誤から実際的な定着まで、プロセスを追ってみられる興味深いものだった。

 

フランク・ゲーリーは何度も模型やアイデアをつくっては壊すを繰り返し、創造しているという。
初期のアイデアを確認し、練り直すことを繰り返している模型はとても造形的で、オブジェのようだった。素材の布、木材、紙、樹脂なども魅力的だ。


建築では出来上がりを想定した完成模型をよく目にするが、ゲーリーの場合は3次元の建築であるからまず最初のアイデアの段階から3次元の模型をつくり始める。その模型を中心に、スケッチやコンピュータプログラムでの設計を織り交ぜながら制作しているようだ。2次元図の再現にはおさまらない。
3次元でつくった模型から、コンピュータのプログラムでさらに3次元のブロックをつくって模型をつくり、またそこからアイデアを考えて行くということもある。会場にはいろいろなプロジェクトの造形的な模型が多数並び、初期のアイデアの模型の重要性が伺える。

ヴィデオの中でゲーリーは沢山つくった模型を保管するための経費が膨大にかかると言ってわらっていた。

 

21_21DESIGN SITEは天井の高い会場で広々としているが、展示作品も展示空間もとてもダイナミックで、沢山の模型やテキスト、映像の見せ方に新しい試みがなされ、いつもながら面白かった。
とくにメインギャラリーでは、広さを活かし、大きなスペースで一度にいくつものプロジェクトが進行しているというゲーリー事務所を想像できる展示だった。

 

いつも彫刻のような曲面やうねった形態で、ガラスや金属の素材がのびのびと使われ、驚きをもたらすゲーリーの建築物のこだわりや制作プロセスが伝わって来る展示だった。

この展覧会企画協力の瀧口範子氏が21_21のサイトで次のように書いているが、まさにこのことが展示されていた。

〜アイデア、手作業、生のイマジネーション、感触のある素材、そして高度なコンピュータ・テクノロジー。これらが合体しているのが、他にはないゲーリー建築の大きな特徴である。〜

 

2015年10月16日(金)- 2016年2月7日(日)
21_21 DESIGN SIGHT

http://www.2121designsight.jp/

 

 

 

 

鈴木理策写真展 意識の流れ

東京オペラシティギャラリーで「鈴木理策写真展 意識の流れ」を見て来た。

 

「海と山のあいだ」「White」「SAKURA」に、新シリーズ「水鏡」「Étude」が動画3点とともに展示されていた。8X10の大型カメラで撮影された写真はどれも隅々まで美しいプリントだった。

 約100点ということだった。枚数は感じなかったが、動画もあり時間をかけて見た。

 

タイトルの「意識の流れ」は「見るという行為に身をゆだねると、とりとめのない記憶やさまざまな意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりのような感情をもたらすことがある」という鈴木自身の経験に基づいてつけられました。鈴木のまなざしを追体験すること、それによって私たちは純粋に「見ること」へと誘われるでしょう。 図録「Stream of consciousness」

 

「海と山のあいだ」 はまさに海と山、岩場の風景だった。大きな写真を直前で見ているうちに、前景、中景、後景という風景のレイヤーを意識しはじめ、どこが中心ということのない画面の最初に目がいった箇所から隅々までを順にみていくという不思議な見方をしていた。確かに見るという行為は「見よう」「理解しよう」ということから「見たことを意味に変えよう」「既視のなかに当てはめよう」という意識がわいてくるが、なにかとりとめのない鈴木理策さんの写真はそれを許さず、見えるものを見えるままに見て行った先に自分の見方が出来上がってくる。見るという行為を体験に変えていくということのようにも思える。

いつも鈴木理策さんの写真にはどこか遠い神懸かったような原初的な奥行きを感じる。

 

これらの写真は静けさに満ちた一瞬の風景をとどめて静止しているが、それは逆に常に動いている時間を感じさせるもので決して停滞しては見えなかった。写真家鈴木理策さん自身もそこに触れている。

写真は静止しているからこそ、私たちが実際の風景を目の前にするときよりも多くの情報をじっくり見せてくれる。2次元に還元されたことで情報が整理されているということもある。

私たちは1枚の静止した写真のなかに、逆に時間を充分に感じることが出来る。それと同時に、実際に見た風景とカメラという外的な装置が撮った写真のブレで失われること、情報を受け取って何かの意味を見つけてしまったことで見えなくなっていくことも沢山ある。

フィルムカメラにこだわり、撮影したその時のその場を撮るということが写真にとって重要としている鈴木理策さんは、自己とカメラの見た風景のブレを含めて受けとり、その場を写真というメディアに対象化しているように思える。

 

「Étude」 は花の咲き乱れる様子がランダムに切り取られていた。その色は直感的にモネの絵を思い起こさせた。モネはそれまでの保守的な絵画に対し、時間とともに変わる光や明るい色彩を描き起こそうとした印象派の画家である。伝統的な技法ではなく、画面全体を均質に、網膜に写ったままの、意味や記号性から解き放たれた絵だった。

鈴木理策さんは以前、後期印象派セザンヌが何枚も描いたエクス サン プロバンスのサント ビクトワール山やアトリエを撮影しているが、印象派の絵そのものの表面と写真の表面が近づいているように思えた。

 

「White」 の雪の白さを撮った写真には「白い印画紙、白い雪のイメージ。その境界線は私たちの側にある。」と書かれたキャプションがあった。私たちは意識のスイッチを持っている。そこに人の視覚とイメージ力、創造力の豊かさ、可能性を感じる。

 

白い印画紙と白い雪のイメージのあいだに揺れることを頭の片隅において、「見続ける」ことが重要だと思う。

 

 

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鈴木理策写真展 意識の流れ|東京オペラシティアートギャラリー

 

 

 

心のアート展

東精協主催の「第5回 心のアート展」は公募展入選作品の展示だった。

作品も展覧会も自由な雰囲気があった。病院内の造形教室で創られた作品が多かったようだったが、いろいろなアプローチで描かれていた。本格的な油彩、鉛筆画、コラージュ、コミック、立体など表現方法もテーマも作家が自由に選び、思い切り描かれているように見えた。

昨年の展示の際のことが描かれた絵、昨年の入選作品を更に描き続けた作品、同じテーマで描き続けられた作品など、他の公募展とはまた違った作品のラインナップで、昨年に続けて見に行って時間の経過や、作家の作っている時間に近いところで見られたというような面白い感じを受けた。

添えられたキャプションも自由に書かれていて、絵にまつわる思い出や技術的な説明などのほか、絵を描くことで自分の人生を振り返り自分と向き合っている方や、自分にとっての絵を描くことの意義などを書いている方もいた。みな素直に、率直に書かれていて、読んでいると共鳴することが多々あり、時間をかけてじっくり読みふけってしまった。


特集の高村智恵子HMの展示も興味深かったです。高村智恵子の切り絵はオリジナルではなかったようだが、繊細な切り込み方、構成は素晴らしかった。

 

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東京精神科病院協会心のアート展>>>